事態は収束する

なかなか波乱な4月が、まだ終わっていない。

あと3日でまだ何かあるんだろうか。

 

今日は昼前にようやくベッドから起き出し、久しぶりに家履き用の靴下を履いた。

そのくらい、ずっと家で過ごしていなかった。

何度か書いている去年からの体調不良はアレルギーで、家にいるととにかく掻いてしまうし、気分も塞ぎ込む。

これは精神的なものもあるらしく、人目のあるところではまだ我慢できるので、休みの日も追い立てるように自分を外へ引っ張り出した。

家族連れがごった返すショッピングモールへ、数年ぶりに行くお気に入りの蕎麦屋へ、好きなバレエ団のシネマ上映へ、近所の川べりを走ったり初めて軽登山にもチャレンジした。

思いつく限りのなんとか気持ちが上向きそうなことをしてみた。

でもダメだった。

嵐のような心模様だった。

何軒も病院に行き、その都度私が子どもの頃から進歩のないことを宣う医者達に苛立ち、徐々に追いつめられていった。

非常時に備えて貯金をしているけれど、今こそが非常時では?と思い、思いきって欲しかったものをポチポチし始めた。

なりふり構わず手足をばたつかせ暴れてる気分だ。

先月やっていた低炭水化物食は出来なくなっていた、ストイックでは解決できない状態だった。

 

そんな時、まるで隕石みたいに唐突に、家族の問題が降りかかった。

兄弟と意見が衝突し、かなり険悪な事態になった。

思い返せば私は随分おかしな返答をしていた。だが、あの時はあれが最善だと思って返した。

それほどに疲弊し、自分の体調のこと以外何も考える余裕がなかった。

結局問題は解決したが、兄弟とのしこりは残った。

一見良くないことなのだが、私の体調はここから好転する。

 

さらに第二弾とばかりに今度は職場から隕石が降ってきて、こちらは目下対応中。

その間も、腐ったようにボロボロだった左の手の平は急速に修復していく。

枯れかけていた植物がみるみる元気になるみたいで見ていて不思議だ。

 

なんの因果もないことだが、私にとって必要な薬だったということだけは分かる。

ユング心理学シンクロニシティ共時性)を考えずにはいられない。

もっとごく個人的なことを言えば、私は「怒ってる方が元気だ」という自覚が数年前からある。

怒りがバイタリティなのだ。おそらくそれが足りなくて、体が弱っていた。

そうは言っても怒りなんてできれば日常で直面したくはないし、難しい。

 

はたから見れば、あるいは自分で振り返ってみても、「なぜそんなことで思いつめていたんだろう?」と思う。

でも、世の中の大抵のことはパーソナルな悩みが拡大したものな気がする。

親から認められたかった少年が世界を滅亡させたり、孤独を憂う歌が世界中の人々の心を救ったりする。

 

学びも、良いこともたくさんあった。

そのうちの一つは、うちに観葉植物がきたことだ。

日帰り旅行のつもりでJRに乗り込み、小雨の中抱えて帰ってきた。

 

しばらくは、静かな命の営みを眺めて暮らす。